「ブラックボックス」

今は昔、そう、バブルの頃。就活中の私が受けた、とある会社の筆記試験。漢字の読み方を書け、というのがいくつかあった。

ふだん読めない漢字にはあまり遭遇しないのだが、その時は、あった。

忖度

なんじゃこりゃ。

それまで見た事もない単語だったので、家に帰って辞書で調べた。

「他人の心中を推し量ること、推察すること」

へーえと思ったが、三十年以上もたって、世の中でこれほど使われるようになるとは、不思議なものである。

 

ここしばらくの、ジャニーズ事務所問題。メディア側の「忖度してしまった」という自己批判も空しく響くほど、世の中いかに権力におもねる者が多いのかを考えさせられる。

今ようやく、一人また一人と声を上げ始めた被害者たちの姿を見るにつけ、思い出すのは2017年に伊藤詩織さんが臨んだ記者会見だ。

あの時まだ二十代だった彼女は、自身の性被害に関して、検察の判断で加害者が不起訴処分となった事に異議申し立てをしたと報告した。

彼女にここまでの勇気を与えたのは、もう誰も同じような目にあってほしくない、という悲痛な願いだ。

そして彼女は一冊の本を書く

 

伊藤詩織「ブラックボックス文藝春秋

 

ジャーナリストになるという目標のため、自分で学費を工面しながら海外で学ぶというタフな日々。仕事を紹介してくれるという報道関係者の誘いは、未来を拓くチャンスではなく、レイプによる絶望へと続いていた。

 

事件の後の混乱と恐怖、それでも彼女は立ち上がり、自身の受けた被害を社会に知らしめる事、そして加害者に対して司法によるまっとうな裁きを与える事を求める。

その過程は苦難と屈辱の連続。そしていったんは許可された加害者への逮捕状は、警視庁のトップによって差し止められる。一体何が起きているのか、まさにブラックボックス、手探りで前に進むと、その鼻先で扉が閉まる。

権力を持つ相手との闘いがいかに苦しく、人を消耗させるものであるか、ひしひしと感じさせられる。たぶん多くの者は力尽き、諦めてしまうのだろう。

だが彼女には支えてくれる友人たちがいた。そして彼女自身の強い意志と理性の力で、記者会見に臨む。

 

それにしても、自身が性被害に遭ったらどこへ行って何をすべきか、どうすれば然るべき支援を受けられるのか、小学生のうちから知っておくべきだとしみじみ思う。性教育はそれぞれご家庭で、とか言ってる場合ではない。

もしかして、原発事故と同じパターンで

起きてはならない不吉な事→想定するのすら嫌→触れないでおく

という事なんだろうか。

いやいや、備えあれば憂いなし、何かあっても被害を最小限に食い止める、というのが正しい対処法だろう。

あとはやはり、「被害者にも隙があったのでは」とか「そういう服装をするから」的な意見がいかにバイアスのかかったものか。これを認識するのも重要だが、この辺が一番硬い岩盤かもしれない。

 

追記

このブログをアップし、画面を確認したら、その下に表示されてる広告がアダルト系だった時の脱力感たるや・・・

この国にいるのがちょっと嫌になるレベル。

 

「良いこと」もしたのか?

YouTubeで音楽を聴いていると、コメント欄に「日本人でよかった」とか「これぞ日本の精神性の高さ」のようなものをたまに見かける。

まあ確かにそれらの曲は日本の伝統的な様式の延長線上にあったり、日本人が作ったり、歌ったりしているのだけれど、その曲がよいからといって、自分もまとめて「日本」という箱にぶっこんで「だから日本は素晴らしい」と悦に入る姿は何だか滑稽だ。

他の国の人々も、多様な言語で賞賛のコメントをしているのだから、その曲の良さは日本人にしか感得できないわけではない。率直に「いい曲だ」と感想を述べておけばすむところを、何故ことさら「日本つながり」で語りたくなるのか。

何となくではあるが、そこに国粋主義的な匂いを感じ、ひいては「大日本帝国万歳」の残響を耳にしたような気持ちになる。

ここ数年、社会の空気に太平洋戦争開戦前と似たものがある、と言われ続けているのも気になり、というわけで他山の石、的に読んだ本

 

小野寺拓也 田野大輔「検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?」 岩波書店

 

ヒトラーナチスといえば歴史における絶対悪、情状酌量の余地なし!と思いきや、ネットにちょくちょく「でも、ナチスって良いこともしてたんだよね」というコメントが出回っているらしい。マジすか?

んなわけねえだろ!

ということを丁寧に検証しているのがこの本である。

 

ナチ体制において経済が上向きになっただとか、労働者への待遇が大幅に改善されただとか、アウトバーンが建設されただとか、手厚い家族支援が行われただとか。

確かに、そういった事はあったようだがしかし、よくよく検証すると、実はナチ体制以前から計画されていた事だったり、実現していなかったり、戦争準備が目的だったり。あるいは障碍者ユダヤ人は支援の対象外だったり、全くのところ「良いこと」ではなかったことが明らかになる。

なのに何故か、ナチ体制下でこのようなことが実現された、という思い込みが未だに語られる不思議さよ。これこそ「やってる感」でごまかし続けたナチの宣伝活動の妙というべきなのだろうか。

 

それにしても、1990年代以降の研究では、ナチ体制下のドイツでは「賛同にもとづく独裁」が行われていたという見方が一般的という事らしい。それ以前はプロパガンダによって国民は洗脳状態だった、とか、暴力で強制的に独裁体制に従っていた、と思われていたが、実は人々はもっと主体的に、体制に同意や協力、受容あるいは黙認していたらしい。

で、ふと考えてみるのだけれど、現在の自分が受容、とまではいかなくても、黙認している事は、かなりあるのではないか。

後の世の人から見ればそれは、主体的な協力なのかもしれない。

とりあえず、選挙の投票だけはちゃんと行こうと思う。

夢に出てくる

ワグネルのプリコジン、死亡が確認されたそうで。

搭乗していた飛行機が墜落、の一報を聞いたときには、林彪事件再びか?と思ったが、似てるような違うような。まあしかし独裁的な権力者に歯向かった者のその後、という点では似ている。

なんかまだまだ泥沼だねえ・・・

というわけで、少し呑気な事でも考えようと漫画を読む。

 

喜国雅彦「今宵は誰と 小説の中の女たち」(双葉社

 

名作、といわれる文学作品に登場する女性たちが、独身サラリーマンである自分の夢に登場したら?というコンセプトで展開する、文学紹介漫画とでも言うんでしょうか。

 

阿部公房の「砂の女」に始まって、三島由紀夫の「潮騒」とか、谷崎潤一郎の「痴人の愛」とか、個性の強い女性が次々出てくる(かなりの割合で裸)が、世間一般には禁じ手とされる「夢落ち」を逆手にとったかたちで、どんなにシュールな展開になっても「どうせ夢なんだから」と、突っ込みなしで読み進められる。

 

既読の作品であれば、そうなんだよねえ、だし、未読の作品であれば、へえ、なんか面白そう、と興味をそそられるし、「名作」というくくりによる敷居の高さを取っ払ってくれるが、読まずにざっくり名作の内容だけ把握しておきたい、という向きにも良いのではないかと。

 

しかしこれを読んでしみじみ、近代の文学とは男目線で、男性が女性を描く世界が主なのだと感じた。男女を逆転させてこの内容で漫画を描くとして、と仮定したところで、簡単に思い浮かばない。

とりあえず「源氏物語」の光源氏は入れておきましょう。で、次だ。

いきなり思考停止する。

たとえば司馬遼太郎作品、と思うのだが、坂本龍馬とか項羽と劉邦とか、純然たる文学作品の登場人物というより歴史上の人物になってしまう。仕方ないからシャーロック・ホームズとか、アルセーヌ・ルパン?

 

散々考えて、候補者下記の通り;

三島由紀夫仮面の告白

ドストエフスキー罪と罰

ヘルマン・ヘッセ車輪の下

曹雪芹「紅楼夢

と、ここでふと思いつく、中島敦山月記」。この主人公には会ってみたいが、すでに虎になった後だと、かなり危険だ。

 

 

 

「身体のいいなり」

顔を合わせるたびに「もう疲れちゃって、しんどいのよ、全然やる気が出ないの。気がついたら寝落ちしてたりして」と、体調不良を切々と訴える知人がいる。

彼女とは同い年なので、そうだね、この年になると疲れがとれないねえ、と相槌をうつのだが、「あなたは元気そうでいいわね」と言われる。

いやそんな元気じゃないし。体調不良アピールは聞いて愉快なものでもないので、自粛しているだけである。

人到中年、手放しでめちゃくちゃ元気!という人の方が少ないだろう。無理をしようにも体がきかん。

 

というわけで内澤旬子「身体のいいなり」(朝日新聞出版)

 

前回の「世界屠畜紀行」に続いて内澤作品だが、この人、若い頃は腰痛だのアトピーだの、とにかく体調不良に苦しめられていたのが、乳癌の発症をきっかけに己の身体の欲するところに従って過ごすうち、すこぶる元気になってしまったらしい。その顛末を記したものがこの本だ。

巷によくある闘病記とも趣が異なる、何とも突き放した感じの体調不良にまつわる数々のエピソード。あーこりゃしんどそう、と思う一方で、そういや私も経験ありますよ、なところもある。

どういう環境で育った人なのかは書かれていないが、たぶん若い頃の彼女はずいぶんと「頭でっかち」だったのだろう。身体の快、不快といった感覚よりも、かくあるべしという意思だけを貫いた事が身体の不調を招いたように見える。

それだけに、病に倒れてから、身体の求めるところに従ってヨガを始めてからの復活ぶりは劇的である。人間の身体が本来持っている生きる力とはこういう事かと思わされる。

 

中学生の頃、朝礼で整列した我々を見た先生が「今時の子供は背筋が曲がって、まるで年寄りだ」と苦々しい口調で言っていた。当時は「そんな事言われたってな~」ぐらいしか思わなかったが、今になって考えると、「だったら、背筋が伸びるように指導しろ」である。

こう言うとまた軍隊式に「シャキッとせえ!」とか、精神論に流れそうなのが当時の学校教育だが、そうではない。体幹を鍛えたり、重心を整えたり、そういうことを教えてくれれば、背筋は自ずとまっすぐ伸びだだろうに。

体育の授業、というと勝ち負けを競うか、記録を伸ばすか、という方向に流れがちだが、むしろ身体と心の関わりを知る事に重点をおけば、ひいては朝起きられないなどのメンタル不調の解決につながるのではないだろうか。

この本を読んで、そんな事も思った。

 

 

肉が肉であるために

アメリカの作家、カート・ヴォネガットの代表作に「スローターハウス5」という小説がある。映画化もされた名作だが、もしこのタイトルがまんま直訳の「第五屠畜場」だったら、日本でそこまで売れただろうか。

そう思ってしまうほど、「屠る」という言葉はインパクトがある。辞書では「からだを切り裂く」とあるが、屠畜とは家畜を解体して食卓に供するために欠かせないプロセスである。

しかし、お肉大好き!かつ屠畜大好き!な人はかなりの少数派と思われる。むしろ、お肉大好き!でも屠畜はちょっと…だったり、牛さん可哀想(泣)といった矛盾を平然と抱えて「カルビ追加!」と言える人の方が多いかもしれない。

 

というわけで内澤旬子「世界屠畜紀行」(角川文庫)。

 

著者はお肉も屠畜も大好き派。そして日本ではこの仕事に従事する人々への偏見があることを憂い、屠畜の面白さを広く知らしめるべく、世界各地の屠畜事情を紹介し、それが日本ではどのように行われているかも報告する。

 

全編これ著者の「屠畜愛」に満ち溢れた本である。詳細なイラストとともに、命ある家畜をどのように絶命させ、血を抜き、皮をはぎ、内臓を出し、四肢を切断し、肉を切り分けるかの工程を述べてゆくが、それはすでに芸術、とも言いたくなるほどシステマティックかつ熟練を要する作業であり、我々がふだん食べている肉の背後にここまで深い世界があるとは、感動的ですらある。

 

しかしそこに向けられる人々の視線は一様ではない。元々このルポが連載されていた雑誌が「部落解放」である事からもわかる通り、我が国においては、屠畜にかかわる産業と被差別部落は密接につながっている。そして部落差別が見えないもの化してきた昨今、屠畜という作業も見えないものとなり、ただきれいにパックされた肉が店頭に並ぶのみである。

 

お肉大好き!な人はやはり、本書を読むべきだ。それで肉に抵抗を感じるぐらいなら、もう食べる資格なし、とすら言いたい。

屠畜がタブー視されていない国では、屠畜作業そのものが調理の土台、おいしさの一部として人々に認識されているのではないか。

 

むかし香港に住んでいた頃、街市と呼ばれる公設市場で、生きておられた頃を彷彿とさせる豚肉をよく見かけたせいか、屠畜にさほどの抵抗を感じない。それどころか彼の地ではスーパーでも普通に豚の肺だの腎臓だの、パックした状態で並べて売っていた。

そうやって普段から目にしていると、生き物の身体が肉と臓器を内包していることは自明のこととして、それこそ「腑に落ちる」のだろう。

裏はどこへ行った

お盆休み、どこに行っても混んでいるので、とりあえず読書。

 

北山修「最後の授業 心をみる人たちへ」(みすず書房

 

北山修といえば「帰って来たヨッパライ」。と思ってるうちに月日は流れ、フォーククルセダーズから精神科医になり、九州大学の教授になったと思ったら退官。

この本は退官を控えての最後の授業と最終講義などを収録したもの。

第一部、最後の授業のテーマはテレビのための精神分析入門。

2010年の刊行なので、あらためて今より当時はテレビが見られていたことを想う。テレビによって想像するという行為がなくなり、それによって物事の「裏」も消えてしまった。全ての事がらが映像化され、可視化されたかのように思わされるが、人の心の裏側までが明かされたわけではなく、この領域を扱う精神分析はこれからも存続するであろう、と語られている。

裏が消えた、と言われてすぐに思い浮かぶのが、いわゆる「裏垢」。ツイッター(今やⅩなのか)でメインのアカウントとは別に、本音を語るための裏アカウント、ということになるが、北山に言わせれば「裏」とは現れてこないものであり、語られないものでもあるから、「裏垢」で語られた時点で、もう「裏」ではないのだろうか。

ネットの世界で裏も表もさらし続けて、本当の意味での「裏」を持たずに人は生きてゆけるのか?そんな事も考えてしまう。

 

この他、神話や昔話から日本人の心のありようを探る試みも面白い。同様のアプローチは河合隼男の著作にもあるけれど、北山はフロイト学派、河合はユング学派、それぞれに比べてみるのも面白い。

 

昔は自切俳人(じきるはいど)名義でオールナイトニッポンのパーソナリティも務めていた北山。あれも一つの「裏」なんだろうか。姉がファンで、「真夜中の辞典」を読んでいたのをふと思い出す。ジングルもちゃんと憶えてるもんですな。

 

納涼!ミッドサマー

連日の猛暑に加えて台風襲来。

 

外出もままならないので、映画でも見るか、しかも寒くなりそうな奴を。

というわけで「ミッドサマー」(アリ・アスター監督 2019)。

思わぬ形で家族を失って間もない傷心のダニーは、ボーイフレンドのクリスチャンたちとスウェーデンのとあるコミューンを訪れる。誘ったのはクリスチャンの友人で、このコミューンで育ったというペレ。

コミューンでは90年に一度という伝統の祭りが行われるというが、この祭り、実は・・・

ホラー映画はあまり見ないので、この映画がホラーというカテゴリーにおいてどの程度の「衝撃映像」なのか判らないが、ほぼ白夜の北欧、という「明るい」舞台で、音響、カメラワーク等の演出に頼らず、ともすれば単調と感じるほどの進行で、平然とスプラッター映像をぶち込んでくるのはかなり斬新。

これだけ明るく美しい自然に囲まれた中で次々と起こる狂気は、もはや狂気を超えて、こっちがどうかしてるんですかね?という感覚さえもたらす。

何よりユニークなのは、細部まで作りこまれた世界観。コミューンの住人たちの衣装や建物、その内部の装飾、そして音楽や踊りなど、実に色々と凝っていて、しかも物語の先行きを示唆するような内容だったりする。二度見して検証を、と思う一方で、もう二回目はないわ、と断言したくなるほどのバッドエンド。

いや、これがバッドエンドかどうかは意見の分かれるところであろう。ヒロイン、ダニーの笑顔を見ていると、少なくとも彼女にはハッピーエンドなのだろうと思えてくるから。

みんなどうかしてるよ!と言いたくなるコミューンだが、我々のいる場所と案外似ている。犠牲になる者たちを憐れみ、悲嘆の叫びをあげて身をよじる人々。

ニュースなど見て「かわいそうだ!」と声はあげるけれど、実際の行動はとらず、ただ善人面の傍観者でやり過ごす我々も変わらんな、という気がする。

見た後の脱力感は「ダンサーインザダーク」超えかもしれない。

見る人を選ぶ映画であるし、悪趣味~と言いつつなんか癖になりそうな味わいがあり、スウェーデン名物、地獄のように臭いといわれるニシンの缶詰、シュールストレミングの映画版ではなかろうか。