肉が肉であるために

アメリカの作家、カート・ヴォネガットの代表作に「スローターハウス5」という小説がある。映画化もされた名作だが、もしこのタイトルがまんま直訳の「第五屠畜場」だったら、日本でそこまで売れただろうか。

そう思ってしまうほど、「屠る」という言葉はインパクトがある。辞書では「からだを切り裂く」とあるが、屠畜とは家畜を解体して食卓に供するために欠かせないプロセスである。

しかし、お肉大好き!かつ屠畜大好き!な人はかなりの少数派と思われる。むしろ、お肉大好き!でも屠畜はちょっと…だったり、牛さん可哀想(泣)といった矛盾を平然と抱えて「カルビ追加!」と言える人の方が多いかもしれない。

 

というわけで内澤旬子「世界屠畜紀行」(角川文庫)。

 

著者はお肉も屠畜も大好き派。そして日本ではこの仕事に従事する人々への偏見があることを憂い、屠畜の面白さを広く知らしめるべく、世界各地の屠畜事情を紹介し、それが日本ではどのように行われているかも報告する。

 

全編これ著者の「屠畜愛」に満ち溢れた本である。詳細なイラストとともに、命ある家畜をどのように絶命させ、血を抜き、皮をはぎ、内臓を出し、四肢を切断し、肉を切り分けるかの工程を述べてゆくが、それはすでに芸術、とも言いたくなるほどシステマティックかつ熟練を要する作業であり、我々がふだん食べている肉の背後にここまで深い世界があるとは、感動的ですらある。

 

しかしそこに向けられる人々の視線は一様ではない。元々このルポが連載されていた雑誌が「部落解放」である事からもわかる通り、我が国においては、屠畜にかかわる産業と被差別部落は密接につながっている。そして部落差別が見えないもの化してきた昨今、屠畜という作業も見えないものとなり、ただきれいにパックされた肉が店頭に並ぶのみである。

 

お肉大好き!な人はやはり、本書を読むべきだ。それで肉に抵抗を感じるぐらいなら、もう食べる資格なし、とすら言いたい。

屠畜がタブー視されていない国では、屠畜作業そのものが調理の土台、おいしさの一部として人々に認識されているのではないか。

 

むかし香港に住んでいた頃、街市と呼ばれる公設市場で、生きておられた頃を彷彿とさせる豚肉をよく見かけたせいか、屠畜にさほどの抵抗を感じない。それどころか彼の地ではスーパーでも普通に豚の肺だの腎臓だの、パックした状態で並べて売っていた。

そうやって普段から目にしていると、生き物の身体が肉と臓器を内包していることは自明のこととして、それこそ「腑に落ちる」のだろう。