散歩の記憶

十五年ほど前、それまでの職場を辞めた。家の事情もあってすぐには次の仕事につかず、半年ちかく無職で過ごした。

失業保険が入るので、贅沢しなければ日々食べる事には困らない。だからといって遊び歩くほどの余裕があるわけでもない。

落ち着くところはお金がかからず、しかも時間がつぶれる楽しみ、ということで、散歩がてら図書館によく行った。

当時はその街に引っ越してまだ一年ほどだったので、歩き回りながら、街の雰囲気やそこに住む人たちの暮らしぶりを観察していた。

それからまた就職し(今の職場だ)、日々時間に追われるようになり、散歩もしなくなったのだけれど、コロナ禍がまた状況を変えた。

緊急事態でどこもかしこも出かけられない。

そこでまた散歩の復活である。

図書館も閉まっているので、あてもなく、歩く。

すでに何年か住んでいるのに、それでもまだ知らない場所もあれば、気に入ったルートもある。コロナがなければ、歩かなかったであろう場所はたくさんある。

時々、遠くまで歩き過ぎることもあった。幸い、家の近所に目印となる大きなマンションがあったので、どこへ行っても帰る方向だけは判っていて、ただしその経路は歩いてみないと判らない、というゲーム感覚だ。

 

星野博美の「迷子の自由」(朝日新聞社)を読んで、久々にあの感覚を思い出した。

車でもなく、自転車でもなく、歩く速度にぴったりなリズムの落ち着いた文章が紡ぎ出す、小さくて大きな発見。

彼女の本を読んでいていつも思うのだけれど、決して自分に嘘をつかない。不器用なほどにじっくり、ゆっくり、周囲とそして自分に向き合って、ぴったりな言葉を探し出して語る人だ。

ともすれば浮ついたごまかしを含んだ、自虐になりそうな話でも、ありのままを淡々と綴る。

こういう人が友人だと、人生の愉しみが増えるのだ。

そう思いながら寝る前に少し読んで、写真を眺めて、目を閉じる。