裏はどこへ行った

お盆休み、どこに行っても混んでいるので、とりあえず読書。

 

北山修「最後の授業 心をみる人たちへ」(みすず書房

 

北山修といえば「帰って来たヨッパライ」。と思ってるうちに月日は流れ、フォーククルセダーズから精神科医になり、九州大学の教授になったと思ったら退官。

この本は退官を控えての最後の授業と最終講義などを収録したもの。

第一部、最後の授業のテーマはテレビのための精神分析入門。

2010年の刊行なので、あらためて今より当時はテレビが見られていたことを想う。テレビによって想像するという行為がなくなり、それによって物事の「裏」も消えてしまった。全ての事がらが映像化され、可視化されたかのように思わされるが、人の心の裏側までが明かされたわけではなく、この領域を扱う精神分析はこれからも存続するであろう、と語られている。

裏が消えた、と言われてすぐに思い浮かぶのが、いわゆる「裏垢」。ツイッター(今やⅩなのか)でメインのアカウントとは別に、本音を語るための裏アカウント、ということになるが、北山に言わせれば「裏」とは現れてこないものであり、語られないものでもあるから、「裏垢」で語られた時点で、もう「裏」ではないのだろうか。

ネットの世界で裏も表もさらし続けて、本当の意味での「裏」を持たずに人は生きてゆけるのか?そんな事も考えてしまう。

 

この他、神話や昔話から日本人の心のありようを探る試みも面白い。同様のアプローチは河合隼男の著作にもあるけれど、北山はフロイト学派、河合はユング学派、それぞれに比べてみるのも面白い。

 

昔は自切俳人(じきるはいど)名義でオールナイトニッポンのパーソナリティも務めていた北山。あれも一つの「裏」なんだろうか。姉がファンで、「真夜中の辞典」を読んでいたのをふと思い出す。ジングルもちゃんと憶えてるもんですな。