「良いこと」もしたのか?

YouTubeで音楽を聴いていると、コメント欄に「日本人でよかった」とか「これぞ日本の精神性の高さ」のようなものをたまに見かける。

まあ確かにそれらの曲は日本の伝統的な様式の延長線上にあったり、日本人が作ったり、歌ったりしているのだけれど、その曲がよいからといって、自分もまとめて「日本」という箱にぶっこんで「だから日本は素晴らしい」と悦に入る姿は何だか滑稽だ。

他の国の人々も、多様な言語で賞賛のコメントをしているのだから、その曲の良さは日本人にしか感得できないわけではない。率直に「いい曲だ」と感想を述べておけばすむところを、何故ことさら「日本つながり」で語りたくなるのか。

何となくではあるが、そこに国粋主義的な匂いを感じ、ひいては「大日本帝国万歳」の残響を耳にしたような気持ちになる。

ここ数年、社会の空気に太平洋戦争開戦前と似たものがある、と言われ続けているのも気になり、というわけで他山の石、的に読んだ本

 

小野寺拓也 田野大輔「検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?」 岩波書店

 

ヒトラーナチスといえば歴史における絶対悪、情状酌量の余地なし!と思いきや、ネットにちょくちょく「でも、ナチスって良いこともしてたんだよね」というコメントが出回っているらしい。マジすか?

んなわけねえだろ!

ということを丁寧に検証しているのがこの本である。

 

ナチ体制において経済が上向きになっただとか、労働者への待遇が大幅に改善されただとか、アウトバーンが建設されただとか、手厚い家族支援が行われただとか。

確かに、そういった事はあったようだがしかし、よくよく検証すると、実はナチ体制以前から計画されていた事だったり、実現していなかったり、戦争準備が目的だったり。あるいは障碍者ユダヤ人は支援の対象外だったり、全くのところ「良いこと」ではなかったことが明らかになる。

なのに何故か、ナチ体制下でこのようなことが実現された、という思い込みが未だに語られる不思議さよ。これこそ「やってる感」でごまかし続けたナチの宣伝活動の妙というべきなのだろうか。

 

それにしても、1990年代以降の研究では、ナチ体制下のドイツでは「賛同にもとづく独裁」が行われていたという見方が一般的という事らしい。それ以前はプロパガンダによって国民は洗脳状態だった、とか、暴力で強制的に独裁体制に従っていた、と思われていたが、実は人々はもっと主体的に、体制に同意や協力、受容あるいは黙認していたらしい。

で、ふと考えてみるのだけれど、現在の自分が受容、とまではいかなくても、黙認している事は、かなりあるのではないか。

後の世の人から見ればそれは、主体的な協力なのかもしれない。

とりあえず、選挙の投票だけはちゃんと行こうと思う。