気がつけば大型連休。
うちの職場はカレンダー通りなので、5月3日から7日までの五連休ですな。
前半は外出が続いたので、ちょっとインドア派に戻るか。というわけで読書。
高田かや「さよなら、カルト村」(文藝春秋)
エッセイ漫画、にしては文字の多い方だと思うが、この内容では致し方あるまい。
作者は農業を基盤にしたコミューンで育ち、幼い頃から小学校までの生活をつづった「カルト村で育ちました」でデビュー。本作はその続編、彼女の中学時代に始まる十代の日々と、村を離れるまでの経緯が語られている。
「カルト村」という言葉は刺激的だし、実際のところ子供を両親とは別の、子供だけの集団で育てるコミューンと聞けば、「ありえない」が普通の反応だろう。
ポルポト政権下のカンボジアなど想像しつつ、どんな恐ろしい生活が・・・と怯えながら読んでみると、これが意外とのどかなんですわ。
子供どうし穏やかに仲良く過ごしていて、日々それなりの楽しみもある。
だがしかし、何かこう、真綿で首を絞めるような、思想教育とでも言いたくなるような方向づけが「世話係」と呼ばれる大人によって行われる生活。強烈な違和感を覚えるのは、何がカルト村の思想に合っていて、何が反しているのか、明確には示されず、ある日突然「あなたは過ちを犯した」と宣告され、反省を強いられるというやり方。
この方向づけを繰り返すうち、人はやがて自分から「正しい」考え方と行動の中に己を囲い込むようになり、そこから逸脱することを避けるようになる。
拷問もなければ脅迫もない、けれど明らかに自由がない。
ただし大人になってからも村に残るかどうかは個人の選択に委ねられるので、作者は「高等部」(高等学校ではない)を卒業した時点で一般社会に出ることを決意する。
彼女のことを幸福だとか不幸だとか、そうした基準で測るのは無意味だろう。
自由な社会に生きているはずの我々であっても、「同調圧力」という言葉に象徴される、明確には示されない「正しさ」から外れることを怖れ、逸脱者を攻撃することで己の「正しさ」を確かめながら、居場所を確保している。
この本を読むという行為は、そうした自分自身の姿を背後から眺めるような、奇妙な錯覚も呼び起こす。
先日、残業続きで連休でようやく一息ついたという、友人に会った。
人手不足は解消しないし、体力的に年々辛くなるけれど、一人暮らしなので辞めるわけにいかない。せめてもう少し楽な仕事に変わりたい。
そんな彼女の言葉に頷きながら、ふと思ったのだ、お金のいらない、自分に合った仕事だけしていればいい、コミューンがあるんだよ、と。
万に一つの可能性もないが、もし彼女がこのカルト村に入りたいと言い出したとして、全力で阻止するかどうか、私には確信がない。