「いとも優雅な意地悪の教本」を京女が読む

先日、武田砂鉄の「わかりやすさの罪」を読むうちに、橋本治のことを思い出していた。

橋本治の著書というのは、読んでいる間は「あーなるほどなるほど」と、判ったような気持ちになるのだけれど、読み終えてみると「で、なんだっけ」と考え込むことになる。

文章は平易なのに、たどり着く先は「わかった」ではない。その落差がある意味くせになり、ついつい読んでしまう。

ここは久々に橋本作品でも、と思っていたところにあったのが「いとも優雅な意地悪の教本」(集英社新書)である。

橋本治が意地悪を語るとくれば、ココ・シャネルがファッションを語るようなものではあるまいか?というわけで読む。

曰く、意地悪とは暴力(言葉の暴力を含む)を回避するための安全装置だ。

生きていれば誰しもが抱く負の感情を、爆発させずにガス抜きするための技が意地悪であり、そのために必要なものは洗練された知性である。

樋口一葉から夏目漱石紫式部らの作品から「意地悪の極意」を読み解く作業は目からうろこ。なるほどね、と何度もうなずきながら、いつしか自分も意地悪でありたいと思い始めてしまう。

まあ、わざわざそう努めなくても、京都人の私は「いけず=意地悪」の資格があるはず。

京都人ネガティブキャンペーンをはれば、真っ先に出てくるのがこの、「いけず」。

しかしこの本を読み、あらためて、京都の「いけず」は平安時代から続く都における生活の知恵だと認識した。

相手を傷つけずに自分の負の感情を発散する、というのが意地悪であるとすれば、「よその人」には誉め言葉にすら聞こえるという京都の「いけず」は、その模範と言えよう。

というわけで、これからも「いけず」に磨きをかけようと決意したら、面倒な人間関係も何やら楽しいことのように思えてくるから不思議だ。