「わかりやすさの罪」

いい年なもんで、今時の言葉に「なんじゃこりゃ!」と驚くことはままあるが、驚きつつも、よくできてるねえ、と感心したのが「わかりみ」という言葉。

あえて解体してみると、「わかる」という動詞と、形容詞、形容動詞の名詞化に使われる「み」という接尾辞に分かれるのだが、この用法はまだ国語辞典には記載されていない模様。

で、その意味するところですが、「わかる」が「み」によって名詞化された状態、すなわち「わかるところ」を指す。「~が深い」「~が大きい」のように後に形容詞を伴い、「よくわかる」という意味をあらわす。

というのが私の理解したところの「わかりみ」という言葉である。

つくづく、言葉って生き物ですね。広辞苑が次に改訂される時には、普通に掲載されてるかもしれない。

それにしても、数ある動詞の中で「わかる」が「み」を獲得したのには、やはり理由があるのではないか?今の世の中において、「わかる」というのはかなり重要なのではないか?

そう思っていたところへの、「わかりやすさの罪」である。

著者は武田砂鉄。

雑誌の目次を見ていて、筆者にこの人の名があれば、ほほう、リベラルな編集方針なのだな、と思う。そういう方である。

そのお方が、「わかりやすさは罪である」とは、一体どういう事なのか。

 

わかりやすい、は歓迎すべきことに思える。

「これでわかった」的なテレビ番組は、多くの視聴者に受け入れられる。

何だか面倒くさそうな、複雑に絡み合った問題も、入り組んだ人間関係も、分厚い学術書も、「わかりやすく」まとめてもらえば、すんなり頭に入ってくる。

そうすれば考える時間が省けて、タイパ(これも新語だなあ)もいい。

世の中全般がこういう方向に傾きつつあるところへ、この本は待ったをかける。

いやそうじゃなくて、事の本質は、わからないところ、そのものではないのか?

わからない、という事こそ重要なのではないか?

わからなくても、大丈夫ではないのか?

そう言ってもらえると、あ、わからなくてもいいんだ、と、ふいに我に返る。

わかりやすい=善、という強迫観念から解放されるような気分である。

 

世の中、わからない事でできている、と言っても過言ではない。

わかったと思いこむよりも、わからないを抱えて生きる方が、物事はよく見えてくるのではないかと。