「大乗経典の誕生」

ヨーロッパに住む友達が

何年かおきに

「現地の友人がそっち行くんでよろしく」

と言ってくるので

そういう時は

京都の貴船神社へ連れてゆく

手軽に行けるのに

人里離れた感が強く

ジャパニーズマインドを味わうのにいい場所

そう思っていたのが

数年前に行って愕然

賑わってる

境内に若い人がいっぱいいて

鞍馬街道にも色んな店が出て

人がぞろぞろ歩いてる

もう新京極と変わらない

ちょうどパワースポットブームとか

話題になってきた頃か

しかも

参拝している若者の

真剣さというか

祈ってる時間の長さ

不信心者の私から見ると

「何をそんなに…」とすら思えてくる

これはしかし

迷える若人が希望を託す対象が

神頼みしかないという

厳しい現実の現れではないか?

かたや仏教はどうかといえば

そんなに若者に支持されてるように思えない

街なかのお寺は

人が亡くなった時だけお世話になる

葬式仏教の印象が強いし

有名寺院は建築や仏像という

過去の遺物で人を集めている

そこに

現在と未来を生きるための

手がかりはあるのかというと

どうも見えてこない

 

平岡聡「大乗経典の誕生」(筑摩書房)を読んで

そんな事を思い出していたのだけれど

この本は

ブッダが亡くなった後に編纂された

大乗経典の成立過程について考察したもの

ざっくり言うと

スター(=ブッダ)亡き後のファンクラブ(=教団)運営は

どうなっていたのか

みたいなもんだろうか

スターは不在でも会報(=経典)は出すけど

求心力を失いがちなファンクラブ(=教団)

なので

存命中の会報(=仏伝)を参考に

現状に合った会報(=大乗経典)を出していたのでは

ということを

両者の比較により検討

私はそもそも

大乗経典の成立過程などよく知らなかったので

あらそうなんですかの連続だったけれど

結びの一節に

「現代に生きる人間の苦しみと真に対峙する宗教であるなら、

古くなった装いは潔く脱ぎ捨て、脱皮し続けなければならない。」

とあるのを読んで

貴船神社の事を思い出した次第

仏教関係者のみなさん

禁止されているのでなければ

この際

新しい経典でも編纂してみたらどうかと

法華経 Ver.2.0」とでも題して

「いじめた人が罰を受けないのはどうして?

ブラック企業でも仕事があるだけマシ?

仏弟子アーナンダやカーシュヤパと一緒に

答えを探してみませんか

二十一世紀の″お経”です!!」

みたいな腰巻つけて売るのだ

なんてな