「三体」は隷書がよく似合う

ようやく読みましたよ。「三体」三部作。

 

最初に刊行されたのが2019年だからもう五年近く前ですか。

ずっと横目で見てたんだけど、こういう大作を読むのはある意味タイミングも大切なので、まあ時が熟したという感じで。

ちょうど文庫版も出るらしいし。

とにかく「すごい」の前評判に、一体(そう、三体じゃなくて)どんな話じゃ、とは思う反面、絶対に予備知識は入れないぞ、とガードを固めてきたが、読み始めると噂通り「巻を措く能わざる」という、怒涛の展開でした。

色んな登場人物が出て、時代も飛ぶ、という点ではたしかにアシモフの「ファウンデーション」シリーズを思い出すし、人類滅亡ストーリーとしてはクラークの「地球幼年期の終わり」も思い出し、宇宙都市が出てくれば「リングワールド」、ぶっ飛び設定といえばコードウェイナー・スミス等々、懐かしSFをあれこれ思い出したりするのだけれど、そのどれとも違う野太さのようなものがあって、読者をぐいぐい引っ張っていくのだ。

中国SFということで、意外な感じもしそうだが、元来中国と荒唐無稽は相性が良い。「荘子」とか、カタツムリの二本の角の上にそれぞれ国があって~って、あんた何言ってんの!的な話が普通に語られているし、「西遊記」もほぼSF。そこへ三体星人が出てきてもさほどの違和感はないのである。

それにしても、いきなり文革で始まり、そこでヒロインが受けたトラウマが人類滅亡のきっかけとなる、という展開は皮肉である。私はこのくだりと、統一教会の二世問題に起因する安倍首相襲撃を重ねてしまったよ。

長い物語なので、主役も少しずつ交代するが、第三部「死神永生」のヒロインである程心に関しては、巷の評判はあまりよろしくないようで。母性はあるものの、ある意味非常に無能というか無為というか。

私は彼女について、中国古典文学の典型的なヒロインという印象を受けた。高貴であるが故に何も為さない。では彼女を主役として物語を動かすにはどうするかというと、こういう女性には必ず、機転の利く侍女がいてご主人様のためにあれこれ立ち回るのである。この侍女すなわち艾AAではなかろうか。侍女の分際で主人にずけずけと指示するあたりもまさにその感じ。

そういえば、艾AAという名前。やはり艾未未と関係あるんだろうか・・・

 

さて、物語は二転三転して最後はとてつもないところまで行きつくが、意外と冷静に「そっか」と受け入れてしまえるから不思議である。

私はたぶん普通の人よりSFを読んできた方だと思うが、自分の生活がネット社会に組み込まれたあたりから日常がSF化したような気分になり、映画はさておきSF小説は読まなくなっていた。

しかしこれを機に、また何か読んでみようかな、と言う気になっている。

 

そうそう、お題について。やはり「三体」の持つ禍々しいイメージは楷書でもなく篆書でもなく隷書かな、て事です。

「グレート・インフルエンザ」

何となくコロナの事を忘れつつある昨今。インバウンドもすっかり復活しちゃったし、というわけで

 

ジョン・バリー「グレート・インフルエンザ  ウイルスに立ち向かった科学者たち」(上下) ちくま文庫

 

インフルエンザの何がそんなにグレートなんじゃい、という話ではなくて、20世紀初めに猛威を振るい、「スペイン風邪」と呼ばれたインフルエンザの話。

この呼び名からついつい、スペイン発祥かと思われがちなこの感染症は、実際にはアメリカが流行の起点だったらしい。

ただでさえインフルエンザの流行など大変なのに、当時は第一次世界大戦のさなか。そしてコロナであれだけ避けろといわれた「密」のかたまりともいえる軍隊が、文字通りこの病気の温床となって、爆発的な流行をもたらした。

といっても、ただのインフルエンザでしょ?と思いきや、この病気の犠牲になるのは中高年よりも若者が多かったという。さらに、つい先ほどまで普通にしていた人が、いきなり発症してあっというまに亡くなる、という事例が頻発したり、人々にとっては紛れもない恐怖となった。

患者の数が多すぎて、あっという間に医療崩壊。死者を弔う事すらできず、ただひたすら家にこもって人との行き来を絶ち、嵐の過ぎ去るのを待つ。

読み進めるうちに奇妙な既視感にとらわれるのは何故だろう、と思っていたら、何のことはない、コロナ禍における我々の生活にそっくりなのだ。

医療水準の違いはあれど、政治レベルの判断や、正しい情報の有無が患者数に大きくかかわるところは変わらないし、権力を持つ立場の人間が、貧困層の窮状を自業自得と捉えて救いの手を差し伸べなかったり、流行が終息しても深刻な後遺症に苦しむ人が大勢出たり、え?これコロナの話だったっけ?という気持ちにさせられる。

 

とりあえず市民にマスクを配布しよう、という街もあったらしく、いやでもアベノマスクを思い出してしまう。何が呆れるって、百年前レベルの事を巨額の税金つぎこんでやってた、我が国の政治のお粗末さ、って奴でしょうか。

 

それにしても、医療水準は百年で随分上がったはずなのに、インフルエンザの感染を100%食い止める方法って未だにないのよねえ。そして決定的な治療薬もなくて、結局たよるべきは己の免疫だけという状況は変わらない。

とりあえず、夜更かしせずに、寝るか。

 

 

納豆は誰のソウルフードか

今やさほどでもないのかもしれないが、日本に住む外国人に「納豆は食べられますか?」という質問は、かなりの「あるある」ではなかろうか。

この場合、観光客は含まれない。というか、海外からの短期旅行者に納豆なんか食えるわけねえし、といった根拠不明な「納豆国家の誇り」が我々日本人の心の奥底から湧き上がり、いきなりスクリーニングしてしまうようだ。

それほどまでに、「こんな臭いもん食べてる我々」のドヤ感は強い。

ところが、どうもこの納豆ナショナリズムを覆すような現実が、世界各地に存在するらしい。

というわけで

 

高野秀行「幻のアフリカ納豆を追え!そして現れた<サピエンス納豆>」(新潮社)

 

著者は世界各地を旅するノンフィクション作家だが、この本に先行するものとして「謎のアジア納豆」という作品を出している。

まあね、アジアくらいならね。稲作も雲南省あたりから伝わってきたんだし、納豆みたいなもんがあっても驚かない。納豆国家の民は多少の動揺を見せながらも、余裕の表情でアジア納豆の存在を受け入れた。

が、しかし、

アフリカにも納豆は存在するらしい。

この情報をもとに、著者ははるか西アフリカまで「アフリカ納豆」を探し求める旅に出るのだが、果たして、かの地に納豆は存在した。

材料も食べ方も様々ではあるものの、納豆菌で発酵した食品であり、あの匂い、あの味がするという。

日本のようにそのまま食べる、というよりは、料理の素材、うま味を出すための調味料として使われるらしい。

現地で供される数々の納豆料理がいかに美味か、読み進むうちに自然と納豆が食べたくなり、白ご飯と納豆だけじゃなくて、納豆汁も・・・という気になってくる。

もはや納豆は日本人だけのソウルフードではなかったのである。

 

ちなみに、韓国にもチョングッチャンという納豆の仲間があり、これを探し求めての旅も語られている。

しかしながら中国大陸はけっこうな空白地帯らしい。

そういえば香港に住んでいた頃、日本人の友人と集まって手巻き寿司を食べたことがある。友人の彼氏である香港人も来ていたが、納豆の匂いをかいで「腐ってんじゃないの?」と不審そうな顔をしていたが、やはり空白地帯のせいだろうか。

 

いったい何回目の攻殻

見てきましたよ。

劇場版「攻殻機動隊SAC_2045」シーズン2

はっきり言ってもうシーズン1の内容ほとんど憶えてない。

エヴァンゲリオンみたいに復習してくれるとありがたいんだけど、まあまあ、思い出したところもあれば、忘れててもさして問題ないというか。

シーズン1で気になってたのが、シマムラタカシの同級生の女の子のその後だったが、結局よくわからず。Nにいたねえ、とは思うんだけど、現実世界ではどうなったのか。ただの美少女要員?

前回よりも更に、我々の生活にAIが浸透してきたおかげか、ポストヒューマンがAIの仕業だと言われても、さもありなんと思ってしまう物語だった。

しかしねえ、N,と言われる軋轢のない理想的(?)ネット環境と現実の二重生活というのは、要するに本音と建前って事だろうか。

だとしたら我々もう普通にやってるが。

 

ともあれ、今回は江崎プリンの巻、とでも呼びたいほど、プリン大活躍だった。なんちゅう名前じゃ、と思っていたが、それにもちゃんと理由があって、泣きました。

私は声優さんにはとんと詳しくないのだけれど、声の演技には呼吸も含まれるのですね。言葉にはならない、息を呑むだとか、不安に満ちた息遣いだとか、鼻息に至るまで繊細に表現されていて、映画館のサウンドだとそれがよく判り、ちょっと感動したよ。

3Dアニメーションも、見る前は違和感あるよなー、と、けっこう抵抗あったのが、始まれば三分ほどでもう馴染む。

人間とは、慣れる生き物である。

しかしミズカネスズカの動きは「イノセント」を彷彿とさせて怖かった。なんであんだけ激しく動いてるのに眼鏡吹っ飛ばないのか、それも謎。

 

今回も、攻殻友達である友人Mと見たのだけれど、お互いいい年だから上映が終わって劇場の階段降りるのに膝が若干ヤバい。「新しい義体に慣れなくて」と、ボーマの台詞を借りつつ、サイバー空間より退場。

 

散歩の記憶

十五年ほど前、それまでの職場を辞めた。家の事情もあってすぐには次の仕事につかず、半年ちかく無職で過ごした。

失業保険が入るので、贅沢しなければ日々食べる事には困らない。だからといって遊び歩くほどの余裕があるわけでもない。

落ち着くところはお金がかからず、しかも時間がつぶれる楽しみ、ということで、散歩がてら図書館によく行った。

当時はその街に引っ越してまだ一年ほどだったので、歩き回りながら、街の雰囲気やそこに住む人たちの暮らしぶりを観察していた。

それからまた就職し(今の職場だ)、日々時間に追われるようになり、散歩もしなくなったのだけれど、コロナ禍がまた状況を変えた。

緊急事態でどこもかしこも出かけられない。

そこでまた散歩の復活である。

図書館も閉まっているので、あてもなく、歩く。

すでに何年か住んでいるのに、それでもまだ知らない場所もあれば、気に入ったルートもある。コロナがなければ、歩かなかったであろう場所はたくさんある。

時々、遠くまで歩き過ぎることもあった。幸い、家の近所に目印となる大きなマンションがあったので、どこへ行っても帰る方向だけは判っていて、ただしその経路は歩いてみないと判らない、というゲーム感覚だ。

 

星野博美の「迷子の自由」(朝日新聞社)を読んで、久々にあの感覚を思い出した。

車でもなく、自転車でもなく、歩く速度にぴったりなリズムの落ち着いた文章が紡ぎ出す、小さくて大きな発見。

彼女の本を読んでいていつも思うのだけれど、決して自分に嘘をつかない。不器用なほどにじっくり、ゆっくり、周囲とそして自分に向き合って、ぴったりな言葉を探し出して語る人だ。

ともすれば浮ついたごまかしを含んだ、自虐になりそうな話でも、ありのままを淡々と綴る。

こういう人が友人だと、人生の愉しみが増えるのだ。

そう思いながら寝る前に少し読んで、写真を眺めて、目を閉じる。

老いてなお、の青空

もう何年も前、友達から「あなたは年を取ったら、中野翠みたいなお婆さんになると思う」と言われたことがある。何となく、そうかもな、と思った。

 

当時、私はたしか三十代で、中野翠もまだ「お婆さん」という年齢ではなかったが、月日は流れ、1946年生まれだという中野翠は現在、古希を超えて立派にお婆さんとなられた。

 

そんな彼女が2019年、すなわち齢73の年に出した、ずばり「老い」について語った本

 

中野翠「いくつになっても トシヨリ生活の愉しみ」文藝春秋

 

彼女のエッセイはかなり読んでいるが、軽い文体と、好き嫌いが激しくても説教臭さのないところが良くて、気の置けない友人と語らっているような気分になる。

元祖おひとりさま的存在で、組織や家族といったしがらみに囚われず、己の「好き」を貫いて身軽に生きてきた彼女にも、「老い」はひとしく訪れる。

そんな彼女にとっての、範としたい先輩老人の話、忘れられない老人映画、老人のファッション、不安なこと、そして老いても日々を愉しむためのあれこれと、最後まで一人を愉しむための心構え。

虚勢をはるでもなく、卑屈になるでもなく、多少はじたばたしながらも、少しずつ自分の中の「老い」と折り合いをつけながら、やっぱりやりたいようにやるしかないなあ、と納得しての一人暮らし。

 

私は現在同居人がいるが、一人暮らしだった数年前までは、彼女がいま過ごしているように、淡々と年を重ねてゆくのだろうと思っていた。そして今でも、とどのつまり人はひとりだし、自分のことは自分で引き受けて生きるのだと考えている。

 

「できるだけ面白く楽しく。心の青空を探して行こう」

 

この心構えにふさわしく、表紙も遊び紙も爽やかなスカイブルーでまとめられた、すっきりとした読後感の本だ。

「腸よ鼻よ」

しばらく前、せっかくの休みなんで、焼肉と北京ダックを中一日あけてがっつり食べたら、消化不良で十日ほど苦しんだ。

ふだん食べつけないゴージャスなものは、この年になると中一日では無理だという事を、身をもって感じた。

なんつうか、昔は一日で治ったものが三日かかり、三日で治ったものは一週間、そして一週間かかったものは半月以上ひっぱるのが、年を取るってことなんですね。

 

私は腹は丈夫な方なので、下すのも何年ぶりじゃ、というほどだったが、いざすんなり治らないとなると気弱になるもので、「はあ、このままずっと、いつお腹が下るかと心配する日々か・・・」などと思う時もあり。

 

というわけで、島袋全優「腸よ鼻よ」(KADOKAWA

 

潰瘍性大腸炎を患う作者の実体験に基づいた漫画だが、とにかく病状が半端ないのに全部ギャグという、振り切れた作品。

サクサク読めるが、待て、これがもし己の身に起こったら?と考えるとフリーズするほどの過酷さなのである。消化器症状ってのは本当に、QOL直結だものなあ。

 

実は私も婦人科系疾患由来で直腸切除の開腹手術を受けたことがあるのだけれど、切った腸がうまくつながらなかったら人工肛門、と言われて、かなり怯えた。

幸いなことに無事回復したが、食事を経口摂取できるまでの十日ほど、点滴で生き延びていた。

にもかかわらず、同室の患者さんの食事の時間になると、食べ物の匂いに反応して胃液が出るらしく、胃がイタタ。はい、点滴のラインを使ってH2ブロッカー注入ね、で抑えていたっけ。

 

本作は全10巻で、先日ついに完結したけれど、要するに10巻の長きにわたる闘病生活があったということなのだ。作者の健康回復に心よりの祝福を。

 

近頃の漫画家さんは紙にペンとインク、ではなくタブレットで作画する人が多いらしいが、こういう技術の進歩によって、身体の状態などが理由で漫画を描くことが難しかった人も、描けるようになるかもしれない。そんな人たちの新しい表現が出てくれば、世の中もまた面白くなるだろう。